愛想笑い教育講座

諸事情によりブログ名変更。23歳Gカップの美女だと思って読んでください

音楽は魔法ですか?

落ち込んでいる
今朝の夢は相当ひどいもので、僕の口臭が"歯を磨いた80歳のおじいさんの口臭と同じ香り"と指摘されるものだった。
僕の心の柔らかいところをガシガシと踏みにじるような言葉であるが、「歯を磨いた」と冠するのは"せめて土足ではなくお靴は脱いで踏みにじりましょうね。"という意味の歪んだ優しさなのだろうか。
そういえば南三陸に赴任していたときは、70歳のモルボルおじいさんの口臭がきついと散々に嘆いたもので、あれに+10年分の酸いも甘いも上乗せてみると、
・・・ごらんよ、これが生き地獄だよ。

季節柄スッキリと晴れることは少なく、曇天や雨天が続き、しばしば吹きすさぶ寒風がそうさせたのかもしれない。
兎に角、久しぶりに落ち込んでいたのだ。


僕は音楽に救われた経験なんてない。
無論音楽は愛しているが、音楽から愛されることはなかった。
その昔付き合っていた彼女に、「自分が人を信用していないのに、信用されるわけなんてないよ」といわれたことがあった。
そうだろう。信じることが愛だとすれば、愛も同じである。
人生を捧げるほどの覚悟がない愛のくせに、求めてはいけない。
僕に救われるほどの愛がなかっただけの話だ。
たかが、愛。

それでも愛の光明は分厚い雲間からも差し込むもので、普段木曜日の朝にイヤホンから流れる山里亮太の軽妙なトークを、気まぐれに宮本浩次のデーデに差し替えてみれば不思議と涙があふれてきた。
音量は最大。あぁこれが救われるということなのかな。
どこかのアーティストたちが"音楽は魔法"だとか、そうでないだとかで揉めていたが、今朝の僕にとって音楽は紛れもない魔法だった。
例えば「いいにおいのする映画」のように、白黒の街に光をともしながら弾むように歩きたい気分だった。
そして札幌の街にしとしとと降り注ぐ雨は、奇跡的に僕だけを避け、傘をさして歩く人たちを尻目に手ぶらで歩くのだ。
今朝の30分間、僕は音楽に抱かれその心地よさに目を潤ませて感動してしまった。

事務所に入り、音楽を止めた瞬間に聞こえたのは声のでかいおじいさんが300dbで電話しているバカでかい声だった。(とにかくうるさいの意)
魔法というのは白状である。
現実に戻るためのダウンタイムを設けてほしいものだ。


電話を終えたおじいさんは「おはようございます」といい、僕も努めて快活に「おはようございます」と返す。
その瞬間思い出した、あぁこのおじいさんの口臭と同じ口臭なのかな・・・


襲い掛かるブルーにおびえ、慌てて耳に刺したイヤホンから暗黒大陸じゃがたらやらを流すが、流れ込むじゃかじゃかは先ほどのように救ってくれることはなかった。
あぁ音楽と恋人同士になれたと思ったのに、気まぐれに一度抱かれただけだったのかしら。
前述のように愛しきれなかった僕に与えてくれる愛など、まやかしに過ぎない。
かけた時間もお金も僕のほうが上。せめて、もう一度・・・
魔法よ魔法、幻を、見せて・・・

僕は落ち込んでいる。
誰か抱いてくれませんか?