愛想笑い教育講座

諸事情によりブログ名変更。23歳Gカップの美女だと思って読んでください

供養

 文フリに出すつもりで書いたけど、メチャクチャすぎて出せなかったボツ原稿を供養します。成仏しますように。

 

 

 

 街角に浮かぶ立ち飲み屋のレバ刺し。いや、 よく見るとそれは赤黒く艶めいた亀頭であり、 ヌラヌラとネオンを反射させていた。
 
 ある年の瀬、すすきのにて。
 そこかしこを人々が往来し、 すれ違う者皆が酒の匂いを纏っている。


 寒風吹き荒ぶ中ネオン街へと歩みを進めると、 ビルとビルの隙間に外套を纏った男を視界の端に捉えた。 男は何やら意味ありげに体を揺らしている。 ふと彼の股間を見遣れば、デカめ(ここで言う「デカめ」 とは世間一般で言うデカめであり、主観を混ぜて表現するならば、 「小さめ」となるのだが)のおちんちんもまた、 男の動きに同調して揺れていた。 厳冬期の札幌でも立派にいきり勃つそれは、雪にも負けず、 風にも負けず、冬の寒さにも負けぬ丈夫なイチモツだった。 僕と友人たち3人は静かに合掌をして立ち去ったが、 あれはどうも失敗だったようだ。
 露出狂とは女性相手に限定したタイプの他、相手を問わない、 露出している自分に興奮するタイプがあるらしい。 そしてどちらのタイプも、嫌悪感を顕にされるにしろ、 罵倒されるにしろ、反応を示される事自体が興奮につながるため、 無視をするのが一番いいのだと後から知った。


 彼の行動は、許されざる行為だと思う。 決して擁護することのできない、卑劣で、 エゴに塗れた犯罪行為である。しかし、 持って生まれた特殊な欲は、日常生活ではどうにも消化できず、 夜のネオン街で外套の隙間から覗かせることでしか満たされない類 のものであることも事実だろう。 僕が松本いちかのAVでオナニーした時の満足感を、 彼は露出することでしか獲得することができないのだ。 きっと彼だって日中は、Yシャツにネクタイと、背広と、 それから少々の社会性なんぞを着込んでいて、 発酵した欲をその内側に仕舞い込んでいるのだろう。類を問わず、 性的な欲求は万人が抱えており、それを支えるのが嗜好である。 あらゆる欲は平等に満たされる方がいいと思う。 だから露出狂の行為は憎むが、その嗜好は認め、 ぎゅっと抱きしめてあげたいなと思う。それに、 僕たちだって後天的に同種の嗜好に目覚めるかもしれない。

 


 僕たちは皆、少なからず性的嗜好というものを抱えている。
 辞書的な意味合いとは違うのだろうが、俗に言う「性癖」 というやつだ。
 それは例えば、プレイの方法だったり、 相手の年齢や体型だったり、シチュエーションだったりと、 性癖としての対象は多岐に及ぶ。 先述した露出もまた性癖の一つである。
 世の中には「NTR(寝取り、寝取られ)」 という類の性癖がある。しかし十把一絡げに「NTR」 と言っても、実はこの3文字は大木の幹に過ぎず、 その地中では細分化されたNTR性癖が根が張って大木を支えてい るのだ。少し掘り返してみるだけで、「寝取り」と「寝取られ」 の区別はもちろんだが、「寝取られ」にしても「寝取られマゾ」 と「寝取られサド」の2種類があり、そこから更に「 カップル奴隷」や「完堕ち」などといった、 凡そ一般的には理解の追いつかぬ単語に行き着く事になる。 そしてそれらの細分化された性癖をいくつも掛け持つため、 僕たちは皆千差万別でいられるのである。これは極端な例だが、 AV男優のしみけんは好みのタイプが「デブ」「ブス」「ババア」 だと公言し、勃起促進のための触媒として「 他人のワキガのニオイが染み付いたマスク」 を持ち歩いているらしい。 どんな種類のAVでも最低2千本は売れると聞いたこともあるから 、 日本国内のワキガ好きの男性もきっと千九百九十九人以上はいるの だろうが、 デブでブスでワキガのババアを好むのはこの世にしみけん一人なの だと思う。


 性癖を自認するのには時間がかかった。それまでは、 ずっと自分探しをしていたように思える。
 小学5年生の時、 学校のウサギ小屋の前で男の子数人とオチンチンの触り合いをした 。確かに勃起していた記憶はあるが、 それは物理的刺激であり性的興奮ではなかっただろう。
 高校3年生の時、部室に貼ってあったリア・ ディゾンのグラビアポスターを電球に透かし、 ポスターの上にぶちまけてみた。 拭き取った部分の印刷が白く剥げ、 誰かにバレたらどうしようとひどく後悔した。
 大学1年生の時、2ちゃんねるで知り合った男性が「 5千円でしゃぶらせてくれ」と言うので承諾した。しかし、 当日になって怖くてドタキャンした。
 同じく大学1年生の時、団鬼六の日活ロマンポルノを観たり、「 老婆の休日〜3人で200歳〜」というAVを観たりしたが、 勃起しなかった。
 結局僕は、男性もダメだし、ぶっかけもダメだし、緊縛も、 熟女も興奮しなかったということがわかった。柚木ティナも、 紋舞らんも、シコるには足るといった具合であり、 考えただけでパンツを湿らせるような、 決定的な刺激にはなり得なかった。
 だけど、大学2年生の時、当時付き合っていた彼女から「 同じゼミの男の子とキスしちゃった」と言われた時は、 怒髪もオチンチンも天を突いた。その後も、 一般的には聞きたくもないであろうことを仔細に聴取する自分が異 常に感じられたが、間違いなく性的興奮だった。 NTRこそが僕のガンジス川だったのだ。それ以来、 寝取られこそ叶わぬ夢であるものの、 表裏一体である関係の寝取りに精を出して欲を満たしていた。 これは社会的道義に背く行為ではあるが、ルールは犯していない。 なぜならば、彼氏持ちの女性と寝ることはあれど、 既婚の女性に手を出したことはないからだ。


 きっと自分の性癖に当惑する人も多いだろう。「 みんな違ってみんないい」とは金子みすゞの言葉であるが、 当惑する君たちにこそ、 ポンポンと肩を叩いたのちに耳元でこの言葉を囁いてあげたいと思 う。そしてそれは痴漢や露出、 ネクロフィリアなどといった犯罪的な性癖に関してだって同様の感 情である。無論、犯罪を肯定しているわけではない。大事なのは、 それらの特殊性癖との付き合い方である。
 彼らはきっと、先天的に、 あるいは幼少期の家庭環境によって後天的に特殊性癖を抱えている のだろうが、少なくとも僕たちの育った日本では、 このような特殊性癖との上手な付き合い方について教育されること はない。彼らが犯罪に走らぬように、 芽が小さいうちに摘み取ってあげたり、 花が咲かない方法を模索しなければならない。 道徳で説くと言う方法はよくない。犯罪に走るものの中には、 社会的道義に背いている背徳心が生む快楽と理性の狭間に溺れてい るケースもあるだろうからだ。欲望に抗う術を、 欲望を摘み取る術を知っておかなければならない。とにかく、 ルールを犯さないという礎の上にあれば、 どんな性癖だって肯定してあげたいと思う。


 昨今、ダイバーシティという言葉を耳にするようになった。 同調とか村社会とか、そういう言葉から解き放たれ、 個人を尊重しようという潮流が生まれてきた。また、 SNSの発展によって、 パーソナルな情報も匿名のまま後悔することができるようになった 。「NTR」という言葉が生まれ、 流行りの性癖として扱われるようになったのも、 世間の行為った潮目の変化によるものだろう。
 おそらくNTR自体は元々ポピュラーな性癖であり、 古くから一定人数に内在していたものなのであろうが、「 他人とパートナーが(他人のパートナーと) 枕を交わすことで興奮する」という社会通念上の異常性により、 隠匿してきたのだと思う。谷崎潤一郎の『痴人の愛』 が名著であると言われるのは、文章の妙もさることながら、 この辺りの背景も起因しているはずだ。


 食欲、睡眠欲と並んで、三大欲求として謳われるのが性欲であり、 その性欲を満たすための性癖が否定されるものであってはならない 。まず隣人の性癖を認め、手を取り合おう。 そして共にオーガズムを迎えることでユートピアを目指すのだ。 人類80億人が同時に賢者タイムとなれば、 その時ばかりは怒声が止み、銃声が止み、 木々のさざめきと鳥の囀りが聞こえるだろう。 これこそが賢者タイムズと呼ばれる革命の第一歩なのではないだろ うか。