愛想笑い教育講座

諸事情によりブログ名変更。23歳Gカップの美女だと思って読んでください

供養

これは文フリに寄稿するつもりで書いた没原稿である。

 

 

ネット環境が充実し、SNSというものが生まれた影響で、手の届かない他人の人生について触れることができるようになった。
更にコロナウィルスの蔓延によって映画やドラマなどの巣ごもり需要が増えたこともあり、無意識的に他人と自分を比較することで、自分という存在に向き合う機会が増えているようにも思える。
自分が何者なのかと提起する映画作品や、小説、漫画が増えているのも少なからずこの影響だろう。
しかしながら自分が何者であるかという問いに、絶望する答えを導き出してしまう人も少なくないだろう。
「自分は何者でもないのではないか。」
赤の他人と自分を並列に並べ、俯瞰して比較する事になんの意味があろうか。
SNSの向こう側のアーティストや芸能人達は、何者であるかと言う問に確固たる答えを持った尊大な人間にみえるし、自分がなんたる小さい人間であろうかと錯覚させることもあるだろうが、その実尊大に見える人間達にしても血肉の通った人間であり、彼らもまた自分が何者であるかと言う問いを持っていることだって少なからずあるのだ。
僕たちが何者でもない限り、何者にだってなれる可能性が残されている。


学生時代、某屋内型アミューズメント施設で夜勤のアルバイトをしていた。
終電を逃した人やヤンキーなどの行き場を無くした夜行性の生き物達が、真夜中の桃源郷として施設を利用していた。
施設内にあるカラオケボックスに脱ぎたてのコンドームを散らかしていったり、所定の場所以外での喫煙、ゴミのポイ捨てや酒の飲み過ぎによる嘔吐など、看過できないルール違反も多く、多忙だった。
アルバイトをするという、如何にも社会性に富んだ行動をとりながらも、僕自身が社会に馴染み、これを笑顔で迎合することを拒むという二律背反に葛藤を抱えていたがために、仏頂面での接客を繰り返して客に胸ぐらを掴まれるといったこともあった。
やがて太陽の白い粉が降り注ぐ時間帯ともなると、新規の客は入場してこないし、利用者もマッサージチェアで眠ったりと嘘のように静かになり、フロントでの仕事は減っていく。
そう言う時僕は決まって、バンドをやってる友達と店内の有線ラジオのスイッチを切り、爆音で「ゆらゆら帝国」の音楽を流すのだった。
社員にバレれば怒られてしまうだろう。
中流家庭で育ち、高校で友達を作り、大学に進学をし、十把一絡げに語られるような何の特徴もない人生から脱却し、何か特別な発光体となりたかった。
果たして爆音で音楽を流すことが目的を果たせるかどうかは不明だったが、何者にもなれないと悩んでいた僕の小さな犯行であり、ささやかな反抗であった。
午前3時のファズギターは、空洞な僕を何者かであると錯覚させた。
それでも秘密基地での深夜の秘事は、いつか大人にバレて終わりを迎えるのが常である。
ある日、僕の犯行は終わりを迎えた。
流していた爆音が社員の耳に入ったようだったが、それでも怒られることがなかったのだ。
規律に反する行為を行うことで世間とは違う自分を自覚できていたのに、それを咎められなかったことが、僕自身が世間一般とは何らズレのない有象無象であるということを突き付けたのだった。
あの日僕の犯行が完遂していれば、別な人生を歩んでいたかもしれない(おそらく今より良くない方向だったに違いないが)。


2019年、大学を卒業すると同時に就職した会社を辞めた。
5年間勤めたその会社は激務で、繁忙期の徹夜などは特別なことではなかった。
社長は辞めようとする僕を止めようと躍起になってくれた。
「俺は一代でこの会社を築き上げた。最初は3人からスタートして、」と説得を始め、
「お前が辞めると言う話は部長から聞いた。俺が土下座してお前が辞めないと言うのであれば、俺は今この場で土下座する。」
「お前は将来会社を背負って立つ人間。だから海外で経験を積んでプロの技術者になって欲しい。プロの技術者はすごいぞ。プロだからな!!」
と、広角に泡のようなものを溜めながら説得してくれたのだが、結果的にこれらの言葉が僕の退職への決意を後押ししてくれる形になったのだから、今では感謝すらしている。


退職直前の某日にテレビをつけると、アリ博士がアマゾンに生息するアリについて解説していた。
どうやらそのアリは働き蟻たちが身を挺してトンネルとなり、道を作るらしい。
同居人のスガワラは、はぁ、ほぅと時折うなずきながらテレビを見ていたかと思うと、突如口を開いた。
「アリイカじゃん」
「え?」
意味がわからない訳ではなかった。
言葉の意味するところの如何を問うている訳ではなく、聞き間違いを信じたかっただけなのだ。頼む。頼む。拳を握って祈った。
「いや、だから、アリイカ。あなたは蟻以下。」
「へぇ」
言葉が出なかった。
同居人に蟻より下の存在だと言われたことがあるだろうか。
絶句するとはまさにこのことなのである。
「だって、蟻さんはこんなに頑張って働いているでしょ。それなのにあなたはこれから退職し、日がな一日家で寝転びながら酸素を二酸化炭素に変えるだけの存在になる。少しはアリさんを見習いなよ。」
「アリさんを?僕が?」
「うん、アリさんを。」
続いてテレビには軍隊蟻が映る。
「入隊しなよ。」
インターンとかあるかな?」
「・・・」
紛れもない地獄だった。僕は皿に残った麻婆豆腐を一気にかき込んで、無言であることの正当性を暗に主張した。


時は流れたが、変わらず無職である。
いや、正確に言えばとある土木設計会社でアルバイトとして雇われているフリーターではあるのだが、これはある種の見栄みたいなもので、「きちんと職を求めれば、正社員なんてすぐで即戦力なんだぜ」といったセルフハンディキャッピングなのだ。そうは言っても見栄というものも出てくるもので、過去2回の職務質問での「ご職業は?」に対し、「フリーランスで土木設計をしています。」などとのたまったりもする。他社からの業務委託で仕事をしたことなど、ここ3年間で1度や2度の話である。
社会の役に立っているかどうかもわからない。
直近で社会の役に立てていることといえば、賭け麻雀だろう。
賭け麻雀といっても、黒川元幹事長のような金を賭けた麻雀ではなく、賭けるものは己の血である。ひと月のトータルの成績で、一定以上の負けがこんだ人間が献血に向かう。僕が勝つたびに、はたまた誰かのアガリに振り込むたびに、世の中の血が足りない誰かへの貢献となるのだ。僕たちの懐は一切潤うことがないが、血は潤う。負けを重ねて頭に上った血も、献血をすることで社会貢献ができるし、同時に冷静になれると言うロジックだ。こんなに立派な社会貢献はない。
抜く血がなければヘアドネーションである。
僕は今、肩よりも下の長さまで伸びた髪を揺らしながら麻雀牌を触っている。
ここ3年間で立派な無職の顔つきになってきたとも思う。
この髪の毛が腰まで伸びた頃、再就職しようか。


一般的に言えば何者でもない人間なのであろう。
しかし僕は自分が何者かであることへの疑念を捨て、悠々自適に生活を送っている。


人間は贅沢な生き物で、どんなに小さな悩みも大きな悩みのように錯覚してしまう。例えその悩みが解決しようとも、今まで目に留めたこともなかった埋没した小さな悩みを掘り返して、あたかも自分の人生を左右するような大きな悩みとして槍玉にあげてしまうものだ。自分が何物なのかという疑義はその最たる例であり、悩みのないものの極地ではないだろうか。
つまり、皆何者かであったとしても自分は何者でもないと錯視しようとし、何者かであることに意味を持たせようとしてしまう。
果たして何者かであることはいいことなのだろうか。


正社員時代「将来の夢」と言うテーマで800字の作文を課されたことがある。
僕はその作文に「将来の夢はない。僕の将来はこの原稿の余白のように無色、何色にでも染まる無限の可能性があるのだ。」と、たった47字で結び、提出したことがある。
僕は何色にも染まれない”無職”透明の道を順調に歩んでいる。
未だもってアリイカなのだ。