愛想笑い教育講座

諸事情によりブログ名変更。23歳Gカップの美女だと思って読んでください

恐怖の正体

やはり友達のいない環境というものは辛い。
宮城という地にやってきてからというもの、休日はひねもす本だの映画だの漫画だのドラマだのといった文化的な活動に憂身をやつしていたものの、どうも塞ぎこみがちになる。しかも、読む本は太宰治だとか谷崎潤一郎だとか、精神の安定を阻害するようなものばかりであるし、映画に至っては園子温キューブリックホドロフスキーなどエロだったりグロが飛び交うような、人間に内包する本質的な恐怖を取り扱う作品ばかりである。
そして独り言を言わない僕にとって言葉を発する機会などなく、せいぜいが近所のセブンイレブンにて店員に告げる「キャスター5mg、ソフトで」に限られてしまう。
こうなっては日々孤独の二文字の輪郭を掘り進めていくばかりなのである。 
孤独とは必然と己に向き合うことであり、恐怖をもたらす。
 
肝試しというものは、妖怪を求めて森や沼、川でおこなわれることが多い。
そしてそこいらには深い闇が点在し、妖怪が住む場所として挙げられるのだ。
しかしながら肝試しの最も肝になる怖さというのは、妖怪でも他の何でもない、ただ一人の自分自身と向き合うことである。
夜の森というのは、何も見えず、何も聞こえず、何もない。
街の喧騒からも隔離され、他人との会話も通信することもままならない。
つまり、無意識に潜む他人との関りを断つことで、自身の存在が浮き彫りになり、否応なしにその存在を意識してしまうことになるのだ。
だからだましだましに一生懸命切れかけのライトで照らそうとしたって、ほら、別な場所にもっともっと深くて暗い闇が生まれるんだよ。
それが転じて"病み"になって、姿形を与えられた「妖怪」として僕たちを苦しめるんだよ、ワトソン君。
 
我が部屋は幸いにも採光に優れ、電波も通じる。
かの危機的状況にもかろうじて闇を作らずに済むのだが、こうして心の健康を脅かす作品にばかり興じていては危険だ。
そういうわけで昨日は日がな一日すね毛を抜いていた。
これは大変心の健康に有効で、一心不乱にすね毛を抜毛することで、奥底の自分と向き合う必要はなく、いってしまえば仮初の形を纏った表皮としての自分と向き合うだけで済む。
わはは!抜くべきすね毛がある限り無敵でアル!!
そして僕はこれから女体化するのだわよ!!!!!!!!
あぁ、もう体の中から女体化したワタシが・・なにか問いかけてきている。
え?なになに?なんか用かい?