愛想笑い教育講座

諸事情によりブログ名変更。23歳Gカップの美女だと思って読んでください

あの日海が見たかった

新川通を車で走ると毎回思い出す。

2009年、大学に入学した僕は入学前健康診断で前後になったZ太と出会った。
奇しくも僕が"工学部"と"法学部"の日程を間違え、文系の健康診断に紛れ込んでしまったのだった。
チェックシャツ率のあまりの少なさに驚き、聞いてた理系像と違う!とおののき、おろおろしていた僕に、

「よぉ、何学部?」

と話しかけてきたのがZ太だった。
こいつはとんでもないコミュ力お化けだ、と思ったのはこれが最初で最後で、
後から気づいたのはただ単に人との距離感を正しく測れない、真のコミュ障であるということだ。
こいつがボクサーであればジャブもストレートも必要ない。
必要なのは力石徹さながらアゴ下から突き上げるアッパーカットだけだ。
とにもかくにもこれを機に僕たちの距離が近づき、地元の話からお気に入りのAVの話まで共有したのだ。
蛇足であるが、当時僕は喘ぎ声からAV女優を当てることや、AV女優名でしりとりができるAVマイスターの資格を有していた。
かくいうZ太は、童貞ではあるが、クラスで一番のぶすに手コキはされたことがあるという、ねじれた経験をしていた。
ぶすと手コキは相性が良い。なぜならあえて喋らない(しゃぶらない)から。
こうして不健全健康診断で中を深めた僕らは、笑顔で手を振り合って解散した

ひゃあ!

 


大学生活にも落ち着いた6月某日の深夜、Z太から「海を見に行こう」と電話が来た。
いいよと答えた僕はポッケに「ハンディマップル」と書かれた地図をねじ込む。
このポケット地図は大学の入学祝にと某出版社勤めの兄貴から贈られたもので、
当時スマホもなければネット環境もなかった僕にとって、この地図は新天地の目的地までを明るく照らしてくれるナビだった。
兄貴は「弊社の売り上げにつながるから」とわざとらしく鼻の下をこすって笑いながらプレゼントをしてくれたことを覚えている。
やがてZ太は白いBianchiクロスバイクに乗ってやってきた。
今の自転車のようにハンドルにギアがついているようなものではなく、フレームにギアがついている古いモデル。
どこで買ったのと聞くと、北大生協の主催する中古セールで買ったようだった。
僕はというと、青いTREKクロスバイクでピカピカの新品だった。
とりあえず地図でも開いて道を確認しようかと、Z太がポケットから取り出した地図には「ハンディマップル」と書いてあった。
こんな偶然あるのかよと二人で笑って、とりあえず北に向かえばいいことは確認した。

えー、と、エルムトンネルを超えて北大の西側の通りを右折して、突き当りまで行けば海の付近だね。
そこまでいければ石狩らへんだもんね、海に出れるでしょ。

突き当りまでいったあと、左折すると小樽ドリームビーチ、右折すると石狩港。
ここが天国と地獄の分かれ目だった。
実は石狩の海っていうのは商船やタンカーなどが出入りする巨大な港湾が存在していて、
そうなると陸送会社や水産加工場、ガスターミナルなどが存在しているもんだから
簡易に海までアクセスすることができないのだ。
事実突き当りから右折して、海の見れる埠頭まで自転車を漕ぐとすると30分はかかるだろう。

こうした下調べなどしていない僕たちは、とにかく進もうとペダルを踏んだ。
北へ進めばいい。この曖昧な共通認識がたまらなくよかった。
どのくらいの距離で、どのくらいの時間を漕げばいいのか、海は本当にみられるのか、何もわからない。
海は目的だけど、それは行動のための仮初の指針であり、行動を目的としてとにかく息を切らすのだった。
気分は死体探しに出かけるリバーフェニックスで、ベン・E・キングのstand by meが頭の中で響いた。

その日の夜は気持ちよかった。

雲はあったんだろうが、ロングTシャツ一枚で暑くもなく寒くもなかった。
風は背中を押した。
北大の西側の片側3車線の大きな通りが、新川通だという名前だということを知ったのはずいぶん後のことだ。
とにかく、片側3車線の大きな通りは車が一台も走っておらず、延々とアスファルトがまっすぐに伸びていた。
街灯は均等に並び、まるでナビだと言わんばかりに橙色の淡い光をもって伸びたアスファルトを照射した。
背中に風を受ける僕たちは縦横にフォーメーションを変えながらいろんな話をした。
僕が何を話したかは覚えていないけれど、Z太の友達が小説家になりたいこと、自衛隊に入った友達がいいやつであること、その友達たちと自転車で遠くまで行ったことを話してくれたことを記憶している。
ガラケーでムービーも撮った。Z太が3車線を大きく蛇行しながら左手を挙げて上ずった声を出しているムービーだ。
1時間もすれば突き当りまで付いた。
なんだ近いじゃん、と浮かれた声で会話して、突き当りを右折した。
早く海をみようぜ、なんて。

楽しかったのはここまでだった。
地図を開いても海へのアクセス路は見つからず、30分ものろのろと漕いでるうちに雨が降ってきた。
僕たちは肩を落としながら、志半ばだけど帰ろうかと合意した。
本降りになる前にと勢いよく漕ぎ始めた時に、Z太は段差に躓いて転んだ。
タイヤもフレームも無事だったけど、ライトが壊れていた。

帰りの新川通はつらかった。
行きに背中に風を受けたということは、そういうことで、当然思うように進むことができない。
行きに縦横に展開した二人は、Z太のライトが壊れているからと僕が前に出て縦に走った。
強くなる雨と風、縦列では会話もできない、半分泣いていたように思う。
結局2時間以上かけて帰った。
僕たちは精一杯の笑顔でまたな、と解散した。

それからZ太とは1年以上遊ばなかった。
再開したのは2010年秋、前田ビルにて。

 

たかが札幌石狩間でクソほど辛い思いをした僕たちは、あの後それぞれに自転車で日本縦断をした。

 

今はまるで別々の道を歩んでいる。
近頃ではめっきり連絡も取らないし、年に1回会えばいいほうなのだろう。
そういえばこの話はZ太としたことがない。
別に不文律でもなんでもないけれど、車もなかった学生時代にはあれっきり新川通を通ることがなく、記憶からすっぽり抜けていただけなんだと思う。
今度あったら話してみようかな。
帰りはつらかった。
とてもつらかったんだけど、いい思い出として話してくれたらうれしいな。

車もバイクもスマホも投げ出して、遠くに行きたい。
不便って愛しいな。