愛想笑い教育講座

諸事情によりブログ名変更。23歳Gカップの美女だと思って読んでください

心の解放区

Netflixにて「三島由紀夫VS東大全共闘」なるドキュメンタリーを見た。
今から50年以上も前に、東大900番教室にて極左の東大全共闘と極右の三島由紀夫が討論会を行った様子を記録した映画である。
「極右VS極左」「保守VS革新」と銘打ってもいいのだろうが、どうもそれは表向きの対立構造にすぎず、腹の中で互いのことをどう思っていたのかはわからない。(個人的感想)
実際、登壇した学生は敵対している(はずの)三島のことを「三島先生」と呼んでしまい、慌てて弁明していた。
一方の三島も学生の一部の行動については称賛していた。
そして結びにも学生の情熱を称え討論会を後にした。

三島は変革の継続性について強く説いた。
一方の東大全共闘側の芥は、解放区は時間を超越すると説いた。
皮肉にも三島はその一年後、クーデターののちに割腹自殺をやってのけ、芥は生きながらえている。

すさまじい熱気だった。
実際のところ、討論会の内容は半分も理解できていないであろう僕にでも、
侃侃諤諤の議論の熱に浮かされているような浮遊感を覚えた。

しかし、過去である。
あの熱気も、過去なのだ。


札幌市の銭湯がまた一つ、暖簾をおろした。
ここ数年で閉業した銭湯は僕の頭にあるだけでも5軒を数えた。
菊水湯、にしき湯、渥美湯、八軒のところの・・・、そして10月4日に閉業したさかえ湯だ。
60年間営業していたとは言え、改装を繰り返したようで、とても広くてきれいだった。
札幌の銭湯にしては珍しく、和柄の刺青が入った人も見たことがなかった。
隣の場外市場の仕事上がりにくる常連さんも多かったように見える。

忌野清志郎は「ラフィータフィー」で真夜中に心の解放区を見出した。
しかし、さかえ湯にくる多くの人にとって、この銭湯に充満する熱気こそが心の解放区だったのだ。

 

この銭湯も、過去になる。

 

10月2日、友達とさかえ湯に訪れた僕は、友達の息子に「はやしのちんちん変」と言われた。
僕は仮性包茎であるし、彼が見慣れているであろう彼の親父(僕の友達)のちんちんはズル剥けである。そこは認めよう。
しかし包茎が異質なものかどうかについては、議論の余地があるのではないだろうか。
僕が昔読んだR25というフリーペーパーには日本人の7割が仮性包茎であるとあった。
民主主義的に考えれば寧ろ仮性包茎こそマジョリティで、正しいのではないのだろうか。
ズル剥けが正しい、なる夢想主義者が唱えた怪しいまやかしに惑わされるべきでない。
仮性包茎である僕だって、仮性包茎のまま一つ上野男になる方法はいくらでもあるのだ。
だいたいだ、日本の文化として、"奥"だとか"間"だとかは大切にされてきただろう。
みんな和の心を忘れないでくれ。包茎は日本の心だ。
ズル剥け原理主義者たちは、僕の奥ゆかしいわびさびちんぽをみて一度考え直してほしい。
その結果としての「はやしのちんちん変」ならば、僕は「うるせぇよ」としか言えない。

 

うるせぇよ!!!!