愛想笑い教育講座

諸事情によりブログ名変更。23歳Gカップの美女だと思って読んでください

やわらかな午後の香りと名文邂逅

散々申し上げている通り、僕は立派に社内ニートを勤め上げている。
只今14:00
昼飯後にかすかに漂うそれぞれの個性ある口臭。
隣のあなたは牛丼味の口臭ですね。
正面のあなた、おや?今日はカツサンドでしたね?いつもは卵サンドなのに。
体臭と合わせたらカツ加齢の臭いですね!なんて鼻の中の古畑任三郎が顎に手を添えながら言っている。
鼻中隔湾曲症、蓄膿症、花粉症、アレルギー性鼻炎の満貫状態の僕の鼻であるが、こんな時ばかり鼻の通りが良い。
時代が違えば芥川龍之介が小説にしているだろうよ。
おい、これで死んだら労災降りんのか?
ベーシックインカムフリスク配れよ、マジで。

うわっ!やめてくれっ!エアコンの風を強くするな!!!


おっと、のっけから話がそれている。
社内ニートの僕は、もっぱらネットパトロールが仕事である。
先日、「音楽文」という一般人の音楽に関する投稿が掲載されたwebサイトをパトロールしていたところ、素敵な一文と出会ってしまった。
これ以来頭の中は、かの文でいっぱいになってしまい、思い出してはニヤニヤしてしまう。もはや恋ではないのか。
僕の年表には、「2018年7月 名文との邂逅」と刻まれることは間違いないだろう。
できればすべての文章について提示してあげたいが、そこは僕だけの秘密とし、この恋心を独り占めしたい。すまん。
この文章は、23歳女性が「忘れらんねえよ」と「LEGO」というバンドのライブに参戦した時の情景描写と心情描写を交互に積み上げる形で書かれている。
まず、"ライブを見るという行為"を、「参戦」と謳うこと自体が高評価なのだが、それに加えてライブ前のSEに「打首獄門同好会」などが流れたことに対して飛び出したこれ。



「 エモみ溢れるさすがの選曲。高まりハンパない。



今まで受けてきた国語教育を全否定し、既成概念をぶち壊しにかかってきたこの一文に、僕はノックアウトされた。
人は自分の理解の及ばないところにある事象に対しては、無意識のうちにファイティングポーズをとって「嫌い」と認識してしまうものだ。
だけど、シナプス断ち切って感情の動くままに出たであろうこの一文は、気づいた時には僕の懐にスッと潜り込んでいたのだ。
ふやけきった日本語、これに加えてずば抜けた構成力とリズム感、スピード感、パンチ力。
両のこぶしを胸元に構えて、「嫌い!」と叫びながら伸ばした右腕は、見事に空を切った。

 

エモいというポッと出の若々しく、ひょっとしたらチャラさを感じさせるような形容詞に、「み」という接尾辞を加えて名詞化させる。
さらにエモいという書き手に内在する感情を、「エモみ」と表現することにより一般化させ、独立した意思を持たせることができる。
これにより書き手という人格・主体への共感を回避し、書き手と切り離された感情や感動への共感を呼び込むことに成功している。
この従来の文法との不整合性を知ってか知らずしてか、エモいという形容詞を名詞化するというひと手間が近未来感を生み出し、「さすがの選曲」と表する謎の上から目線と相まって、未知との遭遇を体験した僕の脳内をかき乱した。
正直「エモみ...」と呟いただけでも感動すると思うのだが、それが溢れ出し、さらに高まりハンパないのだ。
(勘違いしないでほしいのは、昨今の「半端ないって!」のクソ面白くもない焼きまわしブームより以前の投稿である。)
これを正しい日本語に直してみると、

 

「会場BGMは私の感情を強く突き動かした。胸の高鳴りは外に聴こえるかと思うほど強くなっていた。」

 

やはりエモみを溢れさせなければ彼女の熱量は伝わらない。
どうやってもこれらの単語なしでは端的に熱量を演出することができない。

 

僕にはエモみ溢れて高まりハンパなかったBGMに出会ったことがないのだ。
きっと僕の観たことのない世界が彼女には見えていて、衝動的に出た表現なのだろう。羨ましい。
彼女は「打首獄門同好会」が流れた瞬間に、W杯で大迫がゴールを決めた時以上のハンパなさを覚えたであろうことが容易に想像できる。
だって大迫のゴールじゃエモみ溢れないもん。
うらやましい。

 

彼女、ライブ始まったらエモみに溺れて死ぬんじゃないだろうか。